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五十鈴 (軽巡洋艦) : ウィキペディア日本語版
五十鈴 (軽巡洋艦)[いすず]

五十鈴(いすず)は、大日本帝国海軍軽巡洋艦長良型の2番艦である。その艦名は、三重県を流れる五十鈴川より名づけられた。
== 艦歴 ==
五十鈴は、大正年間に多数建造された5500トン型軽巡洋艦の長良型の一艦として、1923年(大正12年)に完成した。完成時には、高速軽巡洋艦として、水雷戦隊の旗艦に適した優秀な艦であり、歴代艦長からは堀悌吉山本五十六高須四郎山口多聞など後に著名になった指揮官も輩出した。
太平洋戦争開戦時にはすでに旧式化しつつあったが、開戦劈頭の香港攻略戦に参加した。1942年4月10日第2南遣艦隊第16戦隊に編入後は小スンダ列島攻略戦など小規模の作戦に従事する。しかし、ソロモン諸島方面でのアメリカ軍の反攻作戦が始まり、五十鈴も急遽ソロモン方面に進出。臨時に第2水雷戦隊の旗艦となり、南太平洋海戦第三次ソロモン海戦に参加。後者では一時航行不能に陥る損害を蒙った。損傷復旧以後は輸送や救援活動に従事。
1943年12月5日、ルオットでアメリカ機動部隊の空襲を受け損傷し日本に帰還。その頃、対空砲火の増強策の一環として5500トン型軽巡の主砲をすべて八九式12.7cm高角砲に換装することになり(1基のみを換装した艦はすでにあった)、その第一弾として損傷復旧中の五十鈴の主砲7門をすべて撤去のうえ、連装高角砲3基6門に換装した。
戦局の悪化により五十鈴に続く艦は出現せず(似たような例としては敷設艦「常磐」(旧一等巡洋艦)があった)、結果的に五十鈴のみが5500トン型軽巡の中で異彩を放つこととなった。この改装では、対空装備の他対潜装備も増備され、改装中に対潜掃討部隊の第31戦隊に当初予定されていた名取に代わって旗艦として編入された。五十鈴が対潜掃討部隊に編入されたのは、名取より電探や対潜兵器が充実していたからであった。
1944年9月14日に改装を終えた五十鈴は対潜掃討に従事することなく、小沢治三郎中将指揮の第三艦隊の一員としてレイテ沖海戦に投入された。これは当時水雷戦隊が不足していたため、対潜掃討部隊とは言え半ば水雷戦隊のような第31戦隊を応急対策として対空戦隊として投入したものであった。この海戦において、敵13機(内4機は不確実)を撃墜したとされる。
レイテ沖海戦で生き残った五十鈴は11月に入り、フィリピン方面に回り輸送任務に従事するが、1944年11月19日コレヒドール島沖で米潜水艦ヘイク (''USS Hake, SS-256'') の魚雷を艦尾に受け舵を流されるなど大破した。駆逐艦の護衛によりシンガポール、ついでスラバヤで修理を行う。
1945年4月1日に修理は完了し、またそれより前の3月25日付で第十方面艦隊付属となった〔日本軽巡戦史、643ページ〕。五十鈴は即座にティモール島をはじめとするスンダ列島所在の陸軍部隊を撤退させる「二号作戦」に投入された。4月4日に水雷艇雉、掃海艇2隻とともにスラバヤを出撃〔日本軽巡戦史、644ページ〕。途中米英潜水艦に狙われるも無事にティモール島クーパンに入港し第48師団の将兵を収容〔日本軽巡戦史、644-645ページ〕。4月5日夜にクーパンを離れて帰路についたが4月6日にはオーストラリア空軍の爆撃機により2回の攻撃を受ける〔日本軽巡戦史、645-646ページ〕。これには付近に展開していた日本陸軍航空部隊第17錬成飛行隊の一式戦「隼」が迎撃、第一波のB-25 20機(第18・第2飛行隊)が爆撃を行うも「隼」2機が妨害し艦艇に損害は無かった〔梅本、2010年、p.120〕。20分後、第二派攻撃にB-24 9機(第21・第24飛行隊)が来襲するも、増援2機を含む「隼」4機は爆撃を妨害しつつB-24 2機(マクドナルド大尉機・フォード中尉機)を撃墜〔梅本、2010年、p.120〕。艦艇の損害は五十鈴が至近弾2発により舵が故障した他、艦首に不発の爆弾1発が命中〔日本軽巡戦史、646ページ〕、「隼」は1機が被弾のみで全機が帰還している。なお、撃墜され落下傘降下したB-24乗員に五十鈴は機銃掃射を行い、「隼」はのちに飛来したカタリナ1機(第112海難救助飛行隊バルマン大尉機)をさらに撃墜している〔梅本、2010年、p.120〕。続いて潜水艦による攻撃があり第十二号掃海艇が撃沈されたが、五十鈴はスンバワ島ビマに入港、そこで第48師団の諸兵を降ろして第46師団を乗せた〔日本軽巡戦史、647ページ〕。
4月7日早朝、ビマを出港した五十鈴は米潜水艦ガビラン (''USS Gabilan, SS-252'') から1本、チャー(''USS Charr, SS-328'') から3本の魚雷を受け8時46分頃に沈没した。結局、五十鈴が対潜掃討に従事することはなかった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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